利重孝夫
利重孝夫(とししげ・たかお)さん

シティ・フットボール・ジャパン(株)代表、footballistaを発行する(株)ソル・メディア代表取締役、東京大学ア式蹴球部総監督、御殿下サッカースクール責任者、東京ユナイテッドFC理事など、プロ・アマ問わず様々なサッカービジネス・活動に従事。
利重孝夫さんインタビュー
[ インタビューは、2022年8月11日に都内で実施 ]

ーーサッカーを始めたきっかけから教えてください。

「私たちの子供時代は、まだ圧倒的に野球少年が多かったのですが、小3のときの隣のクラスの先生がとにかくサッカーに熱心な方で、スポーツを好きな子はみんなサッカーをするようになったのがきっかけですね」

ーー中学になってからはどのようにサッカーをしていたのですか?

「中学では学校のサッカー部に入ったのですが、もっと高いレベルにチャレンジしたいと思い、読売クラブの門を叩きました。当時はクラブユースと言ってもまだ世の中的な認知は低くて、セレクションなどはなく、随時オープンに練習参加を受け付け、そのなかで残る子は残るし、いなくなる子はいなくなる、そんな感じでした」

読売クラブに入部

ーー読売ユースにいながら、学校の勉強と両立できましたか?

「学校の授業が終わるとすぐ消えて、行事にも殆んど参加しない。クラブユースなんて誰も知らないから、『あいつは、一体どこで何をしてるんだ?』という感じだったみたいです。成績だけは落とさないようにしようと決意し、自宅と読売ランドの往復の電車のなかで集中して勉強していました」

ーー読売ユースでは、レギュラーだったのですか?

「レギュラーと言えたかどうか。。でも、なんだかんだ頭から試合には出ていましたよ。そもそも当時のユースは、チームとして勝つことより、一人ひとりが上を目指すことを第一の目的にトレーニングや試合を組んでいた節があって、トレーニングを終えたトップチームの選手がふらっとやってきて練習に加わることもあったりして、ものすごく刺激になりました」

ーー読売ユースからプロではなく、東京大学に進学された理由は?

「それはシンプルにサッカーの実力が足りていなかったからですね、はい。当時の読売クラブはまさにスター選手の集まりでしたし、地域リーグに属していたセカンドチームでも試合に出るのは容易ではなかったと思います」

ーークラブチームも、縦社会の体育会系だったのですか?

「全く違いましたね。年齢に関係なく非常に自由で、無法地帯と言うか、もうそこは日本ではない感じでした。練習中にコーチが選手を削るなんてこともありましたよ(笑)」

ーー東大で体育会のサッカー部(ア式蹴球部)に入られたわけですが、そこはどうでしたか。

「思いのほかクオリティの高い選手が集まっていて、楽しかったです。自由過ぎるストリートサッカー的な世界から大学の体育会に入ると、ガチガチではないものの、上下関係がありコミュニティがあるのがとても新鮮でした。新入生時代には4年生からサッカー以外のことも色々と教えてもらいました。今でも当時の4年生は、自分にとって人生の一番の師ですね」

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[ 週末は総監督を務める大学のリーグ戦に足を運んでいる(東大御殿下グランドにて)]

銀行を経て、また新たなチャレンジの道へ

ーー新卒で日本興業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)に就職されました。銀行を選ばれた理由は?

「当時はバブル時代で、超売り手市場。大学サッカー部の先輩に呼んでもらって、そのまま入社した感じでした。正直なところ、自分の将来を考え抜いた上で決断したわけではなかったですね」

ーー銀行マンのときから、サッカービジネスを考えていたのですか?

「それは全くなかったです。その後、銀行からの派遣でアメリカのビジネススクール(コロンビア大学MBA)に留学する機会があり、スポーツを含むエンターテインメントビジネス、映画とか、音楽とか、ゲームなどの業界に興味を持ち始めました」

ーーその後、楽天に転職されたのは、三木谷さんに誘われたのですか?

「三木谷さんとは銀行の同期で、米国留学が1年重なっていたこともあって声を掛けてもらいました。自分は銀行を飛び出してから暫くゲームや映画ビジネスに携わっていて、楽天ではまだ着手していなかった権利ビジネスやエンターテイメントビジネスにチャレンジしたいと考えました。まだマイナーだった読売ユースの門を叩いた時と通じるかもしれませんが、前任者が存在しない分野に関わりたがる癖があるのかもしれません(笑)」

三木谷会長にヴェルディのスポンサーになることを進言

ーーそのころ、楽天はサッカーには全く関わりがなかったと思いますが、2002年にヴェルディの胸スポンサーになったのは、利重さんが働きかけたのでしょうか?

「当時の親会社である日本テレビがヴェルディへのサポートを縮小することになり、メインスポンサーを探しているとの話が内々に入ってきました。ちょうど楽天も急成長していた時期で、でもほとんど一般には知られていない存在で、ブランド認知度を上げるための方策として提案しました。すぐにGOサインが出たわけではないですが、三木谷さんも何か感じることがあったのでしょうね。『あの話いいんじゃない』となり、ホーム開幕戦にギリギリ間に合わせました」

ーー三木谷さんは、そのころからサッカーに関心があった?

「彼も大学時代テニス部のキャプテンだったので、スポーツ全般に対する馴染みはあったと思いますが、スポーツを絡めて事業を成長させるという発想は当時はなかったかもしれません。実際にプロスポーツクラブのスポンサーになって初めて、企業の知名度アップが図られ、一般ユーザーからの親しみや信頼が増していくことの手応えを感じ取れるようになったのではないでしょうか」

ーーその後、三木谷さんがヴィッセル神戸のオーナーになったのも、利重さんの影響があったのでしょうか?

「メインスポンサーになったことで、プロスポーツ事業に関わるダイナミズムを感じたのは確かですが、一方で、経営の関与度と言う点ではクラブオーナーにならない限り限定的なものに留まるというフラストレーションもひしひしと感じました。そんな折に、三木谷さんの地元クラブであるヴィッセルから話があったわけです」

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[ マンチェスター・シティ プレミアリーグ公式戦前に顧客をピッチレベルまでご案内
(マンチェスター エティハドスタジアムにて)]

CFGの日本代表に就任、『点』が『面』になってきた

ーーその後、シティ・フットボール・ジャパン代表になられたのはどういった経緯からでしょうか?

「そもそもの始まりは楽天の役員時代に、買収したばかりのカード会社事業のプロモーションの一環としてFCバルセロナの提携カードを発行するディールを成約させたことです。当時バルサ副会長だったフェラン・ソリアーノが、同年代でネット業界出身だったこともあってウマが合い、提携することが出来ました。バルサがちょうどチャンピオンズリーグで久々に優勝した頃で、若手のメッシが試合に出始め、チームとして黄金期を迎える前の理想的なタイミングでしたね。その後、一度中断時期があった後、自分はもう会社の外に出てしまっていましたが、楽天がバルサの胸スポンサーに決まったときは本当に胸アツでした」

「その後バルサ内ではいつものように(笑)内紛があって経営陣も変わり、フェランはと言うとマンチェスター・シティに移って、シティ・フットボール・グループ(CFG)を立ち上げました。するとフェランから、とある日系企業との提携話が進行中ということで相談を受けたんですね。幸い、そのとある企業の日産とのパートナーシップ契約が成立したことで、CFGも日本法人を設立し、日産の子会社である横浜マリノスさんを本腰でサポートする機会に恵まれることとなりました」

ーーフェランさんとともに、サッカービジネスの世界を歩んでいるのですね。

「CFGが設立されてからちょうど10年、自分もそのなかの8年を一緒に歩んできました。今ではクラブ経営の王道とも称されるマルチクラブ・オーナーシップも設立当初は随分と眉唾だと言われたものです。オイルマネーに支えられた金満クラブと揶揄されたマンチェスター・シティがプレミアリーグのタイトルを取り続けるようになったことや、毎年グローバルに提携クラブが増え続け、今年イタリアのパレルモが12番目のクラブとして加わったことなど、グループが成長し続けていられるのは決して偶然ではありません。経営ビジョンの設定から、目的を達成するための組織づくりや戦略立案と遂行など、8年経過した今でも常に刺激的な日々を送れていることにはとても感謝しています」

「自分自身ここに到るまで、高校や大学時代からサッカービジネスでキャリアを構築していこうと周到に準備を進めてきたわけではありません。要所要所で有難い巡り合わせがあって、『点』と『点』があるタイミングで『線』になり『面』となって今があります。でも、自分から手を挙げたり、リスクを取って未知の世界に飛び込んだことで良縁を掴むことが出来た、と確信していることも事実ですね」

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[ マンチェスター・シティ プレミアリーグ公式戦前に顧客をVIPルームからスタンド座席までご案内(マンチェスター エティハドスタジアムにて)]