脇野隼人(わきの・はやと)さん 1993年4月10日生まれ。清水エスパルスジュニアユースから東海大学付属翔洋高校(現・東海大学付属静岡翔洋高等学校)に進学。卒業後はアスルクラロ沼津に所属した後、オーストラリアに渡り、APIAライカート・タイガースFCを皮切りに計14チームでプレーする。2021年〜、アラブ首長国連邦(UAE)の(ドバイ・)シティ・フットボール・クラブに所属。UAEファーストディヴィジョンリーグ(UAEプロリーグの下位リーグ)でプレーする初の日本人選手となる。同チームとは2022年5月に契約満了し、アブダビでチーム探し中。(2022年9月末現在) |
ーーUAE(アラブ首長国連邦)の2部に所属されています。開幕からレギュラーなんですね。
ポジションはいろいろ変わってはいるんですが、全試合交代なしで使ってもらっています。
でも正直、今のチームはリーグの中で底辺です。そこから移籍したいっていうのがあり、この冬に考えていたのですが、それは叶わず。ちょっと自分が思い描いたものと違うなぁ、っていう感じなんです。
今のチームは、資金をはじめとして、いろんなところで厳しい状況にあります。この前の試合が、今期初勝利という感じなのでチームとしても厳しいです。ここで活躍し、移籍するというのが目標だったので、それがちょっとうまくいかず悔しいです。
ーーチームの中で外国人は何人ですか。1部との違いは?
UAE2部の外国人枠は2名です。現在、15チームあるので外国人は30名です。枠がないので他チームへの移籍は難しいですね。現地の選手はレベルが高いわけではなく、相手チームも含めて外国人頼りのサッカーをしている感じです。
今のチームも外国人が奮闘しても2名だけですし、勝つことが難しく、厳しい状況です。自分の仕事も増えており、なかなか難しい状況に置かれています。
UAE1部も、現地の選手は、ロングボールに頼る感じで、1部であってもあまり高いとは感じません。しかし、1部は外国人の人数が多いこともあり、レベルがそこそこ高くなっていると思います。
ーーUAEには、昨年まで塩谷選手がいたのですが、日本人の選手としてのステイタスは高くなりましたか?
確かに塩谷選手がいて、評価されたと思います。しかし、この(UAE2部)リーグには日本人はもちろん、アジア人もいません。自分がはじめての日本人です。そのため、まだまだ日本人については認知されていないと思います。
ーー日ごろのコミュニケーションは英語ですか?
英語です。監督がイングランド人ということもあり、監督とも英語でコミュニケーションがとれます。
静岡で育ち、単身オーストラリアへ
ーーこれまでのサッカーのキャリアを振り返っていただけますか?
静岡県で育ちました。高校を卒業とともにサッカーの専門学校への入学が決まっていたのですが、海外にはつながらないなと考え、結局、入学せず、地元のアスルクラロ沼津に入団しました。アスルクラロ沼津は今はJ3ですが、当時は地域リーグでした。
ーー海外に行きたいと考えたのはいつ頃からですか?
中学生のころに考え始めました。中学時代は清水エスパルスのジュニアユースにいましたが、20人中、20番目の選手という感じで、試合にも出場できず、全国に行ってもベンチにも入れませんでした。こんなチームメイトと勝負してプロになれるのかどうかを考えた時、人と同じことをしてもプロにはなれないと思いました。どうしたらプロになれるだろうと考えたときに、同郷のキングカズ(三浦和良選手)がブラジルに行ったことを思い出し、自分も海外に行こうと決めました。
ーー最初にオーストラリアを選んだのはなぜですか?
本当はブラジルに行きたかったのですが、これまで自分は全く勉強をしてきませんでした。海外でやるには英語が必要だということと、一番行きやすかったのがオーストラリアということで、まずは目指すことにしました。その時は、その先のことまで考えておらず、とりあえず行ってみようという感じです。
ーーオーストラリアに行ってからチームを探したんですか?
テストを受けて入団しました。その時は、U20のユースチームでした。20歳以下の選手だと、トップチームの試合に出ても給料は出ません。そのため、当時のオーストラリアでは、サッカーで給料をもらっていません。
ーーオーストラリアのサッカーはどうでしたか?
オーストラリアのサッカーはフィジカル勝負と感じました。自分も日本ではフィジカルが強い方なので、それがオーストラリアで適応できた理由ではないかと思います。
日本のサッカーは戦術重視だと思います。戦術の理解力や団結力が求められ、上下関係も厳しく自分には合わないと感じていました。実際に海外に出てみて、フィジカル重視の海外の方が自分には合うと感じました。
ーーオーストラリアと日本の違いをどう感じましたか。またご自身の変化はありましたか?
オーストラリアの選手はフィジカルが強いのですが、日本人はアジリティがあると思います。初速が速いイメージです。また、日本で戦術を学んでいるので、それは活かすことができたと思います。
また、技術力もあるのですが、ミニゲームでは使えても、試合で使えない技術だと思いました。日本人の技術はトップレベルだと思いますが、プレッシャーの中で使えないような感じで、そこは課題だと思いました。
今の自分は、身長は170㎝あるかないかぐらいですが、体重は76㎏ぐらいです。オーストラリアに行ったばかりのころはかなり細くて、身体も硬かったです。そこから筋トレを開始し、ストレッチもするようになり、柔軟性がつきました。その結果、大怪我もしなくなったと思います。
筋トレの内容は、週に1度、チームで時間をとってやる程度です。ご飯の量もあまり食べる方ではないので、徐々に身体が出来上がってきたのだと思います。
リトアニアでプロになる
ーープロになったのは、リトアニアが最初なんですね。
リトアニア1部のチームで、プロとしての生活が始まりました。
最初はラトビア1部のチームの入団テストを受けに行きました。しかし、結局、そのチームから「日本人はいらない」と言われてしまい、たまたま現地のマネージャーのような方がエージェントをしており、リトアニアのチームの練習に送ってくれて契約に至りました。
サッカーのレベルとしては、オーストラリアよりもリトアニアの方が上だと感じました。リトアニアは1部のチームということもあるかもしれませんが、フィジカルも強く、さらに技術面も加わった感じです。
ーーリトアニアで大変だったことはありますか?
最初は、「日本人?誰?」という感じでした。実はオーストラリアでは日本人が多いこともあり、英語を学ぶ機会があまりありませんでした。しかし、リトアニアには日本人がいなかったため、ここにきてはじめて、全く英語が話せないことで苦労しました。
給料は出ましたが、話にならないような低いレベルです。ただ、家も食事もユニフォームも用意されていたのと物価が安かったため、生きるうえでは困りませんでした。
スパイクは自分で買う必要がありましたが、物価が安いので問題ありませんでした。
日本人はドイツに適応しやすい
ーー次はドイツに行かれたんですね。
リトアニアでは試合に出場する機会が少なく、もっと試合に出場したいと考えていたところ、知り合いからドイツに新しいチームができるので、「テストを受けてみてはどうか」と誘われました。ドイツ6部のチームで、レベルはわかりませんでしたが、「6部なら大丈夫だろう」という気持ちで行きました。新しいチームということもあり、体制がしっかりしていて、住む場所も食事も支給され、少しですが給料も上がりました。
ーードイツ語でサッカーをやるのでしょうか?また、ドイツのサッカーの特徴は?
チームがインターナショナルで全員外国人だったため、言葉は英語でした。ただ6部では先行きが見えないと感じて、次を探すことにしました。
ドイツでは、6部のチームですら、1対1で戦えるような強さを求められました。そして、日本のような戦術面で工夫が交じっていると思います。日本とドイツのサッカーは似ている面もあるので、日本人はドイツで適応しやすいのかもしれません。
ーードイツの次はどこに行かれたのですか?
フィンランドの3部です。ポルトガル人のエージェントから他のチームを紹介され、テストを受けたのですが、そこがダメで、フィンランドで契約をしてもらいました。
エージェントは、これまでの人脈から、自分で見つけました。エージェントへの支払いは、成功報酬というやり方で、給料の10%を払いました。2年契約で、最初は良かったのですが、徐々に使えないと思うことが重なって、最後はケンカ別れしてしまいました。
ーードイツとフィンランドのサッカーの違いはありますか?
フィンランドの方がドイツより技術が落ちると思うのですが、そこまで変わりませんね。サッカーの特徴もドイツに似たサッカーだった気がします。
ーーフィンランドの次は?
リトアニア1部に戻りました。本当はフィンランド2部でチームを探していたのですが、なかなかOKがもらえない時に、リトアニアの知り合いから練習参加を誘われていったところ、契約に至りました。前にリトアニアにいた時よりも条件は良くなったのですが、チームが買収されてしまい、結果、半年間程度で3、4試合しか出られませんでした。その後、オーナーと喧嘩してクビになってしまいました。
たまたま知り合ったエージェントからコソボの1部リーグのチームでテストがあることを教えてもらいました。未知の国だし、(リトアニアのチームを)クビになってしまったので、行ってみようと思ったのがきっかけです。
コソボでは給与の未払いを経験
ーーコソボのサッカーはどうでしたか?
個人が結構上手かったです。コソボはセルビアから独立した国で、サッカーが上手いんですよ。サッカー人気もあります。ただ、グラウンドが悪いですね。芝がボコボコしていました。結局、給料が未払いということと、試合にも絡めていないことがあり、辞めました。食事は出ていたので、食うに困ることはなかったのですが、他の国を探すことにしました。UAE(アラブ首長国連邦)にも行ってみたのですが、結局、決まらず。コソボは約3ヵ月いて、日本にいったん帰国しました。
ーーその次が、ニュージーランドですか?
コソボで給与の未払いが起きたことで、次はしっかりした国に行きたいと考えていました。そんななか、たまたまニュージーランドの知人から話をもらい、サウスランド・ユナイテッドに入団しました。ニュージーランドはシーズンがバラバラで2部が冬、1部が夏です。冬の時期に行ったので、2部でスタートしました。
ーーニュージーランドはどうでしたか?
これまでの国の中で最も長くプレーしました。3年ほどいたことになります。生活も快適でしたし、給与もしっかり払われました。ただ、ニュージーランドにはプロリーグはなく、セミプロのような感じでした。日本人にサッカーを教えたり、アカデミーチームで教えたりしていました。(プロではないチームとしては)サッカーだけで給料を出してはいけない、という感じだったと思います。
ニュージーランドではラグビーチームと筋トレ
ーーニュージーランドで長くプレーをすることで変わったことはありましたか?
ラグビーチームと一緒に筋トレをしたこともあり、この時期に身体が大きくなったと思います。その結果、プレースタイルもこれまで以上にゴリゴリいけるようになったと思います。日本人にはいないようなタイプになれたのではないかと思います。
ーー次にモンゴルですね。何がきっかけですか?
日本に用事があって一時帰国した際、再度、ニュージーランドに戻る予定だったのですが、所属チームからビザをキャンセルされて、戻れなくなってしまったんです。空港まで行ったんですが、飛行機に乗れませんでした。実は、ビザを出してくれていたチームに、裏で移籍しようとしていたのがバレてしまったんです。
どこも行くところがなくて困っていたところ、知り合いからモンゴルがあると教えられました。
ーーどういうお知り合いだったんですか?
モンゴルでプレーをしたことがある日本人の知り合いです。実は、モンゴルでプレーする日本人って多いんです。日本ほどレベルが高くないので、プレーしやすいのかもしれません。モンゴルは親日国家で、入国もしやすいんです。
ーーモンゴルはプロリーグだったんですか?
モンゴルは1部しかなかったと思いますが、一応、プロリーグだったと思います。入団テストもなく、飛行機代はチームが持ってくれるということで行きました。給料も出ました。物価が安いので、その給料で生活もできました。
ーーモンゴルのサッカーはどうでしたか?
フィジカルが中心ですね。グラウンドは人工芝で、他の国よりもサッカーのレベルが低かったように思います。
ただ、入団したチームは、毎年チャンピオンをとるようなチームで、3つのタイトルがあり三冠をとっていました。自分が入団した年は、1つタイトルを逃して二冠でしたが、自分自身も活躍できたと思います。
ーーその次はネパールですよね?
そうです。コロナが始まる前まで滞在しました。日本にいる先輩が仲良くしているネパール人の選手がいて、その人から誘われました。その時はたまたまフリーで、シーズンが乾季だったので、その間だけならと思って、ネパールに行きました。
ネパールの生活は厳しかったです。日本の社会人なみの給料をもらえたのですが、食生活など生活環境がいいとはいえませんでした。短期のシーズンで3ヵ月間、滞在しましたが、週に2回の試合以外は何もやることもなかったです。
サッカーに関しては、ネパールのほうがモンゴルよりレベルが高かったです。特にネパール人は身体能力が高く、スピードも速かった。ただ、きれいなスタジアムなのに、グラウンドが悪くて芝がデコボコしているため、格闘技のようなサッカーになっていました。
ーーネパールの後は?
コロナで一時、中断しました。日本に一時帰国し、5カ月間ぐらいトレーニングを続けていました。その後、今いるUAEに来ました。UAEの日本人学校の生徒を中心に子どもたちにサッカーを教えながら、プレーしています。自分でサッカースクールを開き、プロサッカー選手よりも、スクールのほうが給料がいいです。練習環境も良く、ヨーロッパからも近いことも魅力です。
①日本(ピンク)②オーストラリア(茶)③リトアニア(青)④ドイツ(黄緑) ⑤フィンランド(赤)⑥コソボ(緑)⑦ニュージーランド(紫)⑧モンゴル(紺) ⑨ネパール(オレンジ)⑩アラブ首長国連邦(UAE)(黄色) |
日本と海外の架け橋に
ーー脇野さんの将来の夢はなんでしょうか?
引退後に考えていることは、海外でプレーしたい日本人を海外に送り、日本でプレーしたい外国人を日本に送ることで、日本と海外の「架け橋」になりたいと考えています。海外でコーチをしながら、エージェント的なことをやりたいですね。
ーーその拠点はどこに置き、具体的にどんな活動をイメージしていますか?
今はUAEが一番良いと思っています。過ごしやすいですし、エージェントをやる場合の待遇の部分も良いと思います。何よりも、ヨーロッパから近く、練習環境が整っています。
今は少年たちのコーチをしていますが、将来は高校生やプロになる前の選手を育てて海外に送りたいですね。「海外に出たいけれども、どこに出たら良いのかわからない」ということがあるからです。海外に施設を作り、育ててから、行きたい国に送ってあげたいです。
自分が若い時に、こういうアカデミーがあったら便利だと思っていたので、それを実現したいです。
ーー今はサッカー少年たちに、どのようなスタイルで教えていますか?
どこの国に行っても必要なので、個人技の部分とメンタル面のことを教えています。それが、日本では十分には学ばなかったけれど、海外では必要だと思うからです。教えている子供たち全員がサッカー選手になるとは思っていませんが、海外で生き抜いていくスキルを身につけてほしいと思います。
ーーご自身のプレーについてどのようにお考えですか?
自分自身は30歳までに、選手を続けるか、引退するかを決断するつもりでした(※インタビュー当時の年齢は28歳))。今シーズンは今年5月までの契約ですが、今後、よいチームに移籍でき、選手としてやっていける見通しが立てば続けますが、そうでなければ、選手としては引退するかもしれません。
ーー「30歳まで」と線を引いている理由は?
家族と約束しました。これまで自由にやらせてもらったので。最初に海外に出たときから30歳までと決めていたんです。ただ、今が一番うまくなっているという実感はあり、30歳を過ぎても成長はできると思っています。
ーーなぜあちこち海外を渡り歩きながら、サッカーを続けてきたのでしょうか?
サッカーが好きなんですよね。辞めようと思ってもサッカーが好きで辞められないんです。つらいことも多いのですが、「チームが勝てたとき」「自分が点を取れたとき」「自分がドリブルで相手をかわせたとき」が自分の中での喜びです。数は多くはないですが、自分がチームを勝たせたこともあるので、給料の未払いなどつらい時期もありましたけれど、また喜びを味わいたいと思って続けています。
ーー落ち込む時もあるでしょうが、どのようにモチベーションを取り戻していますか?
趣味がお酒なんです。こちらには日本人の駐在員がいるので、お酒を飲みながらそういった人たちの世界観を聴き、しばらくサッカーを忘れます。そして、サッカーをやりたくなったら、また戻ります。
ーー10カ国でプレーするメンタルの強さに驚くのですが、それはもともとでしょうか?それとも海外に行って強くなったのですか?
メンタルは、本当は強くないです。しかし、いろいろと経験するなかで、こうなったらクビになるとか、いろいろわかってくるようになります(笑)。
ーー日本のサッカーの育成について、海外と比べて課題だと思うことはありますか?
海外の育成の様子も見てきましたが、監督やコーチがあまり怒りません。子供たちにも「自分たちで考えて」という指導が多いと感じます。その中で、スーパースターも生まれてくるというか、伸びる選手が出てくるように感じています。
日本の育成は基本的に、監督やコーチが指示を出して教えることが多いと思います。日本の教育全体にそういうところがありますが、「教えすぎる」ことで、子供のアイデアが消えてしまい、技術はうまくても、一定以上伸びない選手が多いように思います。指示通りには動くが、「規格外」の選手がなかなかあらわれない。だから、日本の代表チームは今のところ、世界の超一流にまではなれないのではないかと思います。
(2022月2月12日、オンラインでインタビュー)
[ 脇野隼人選手をよく知る渡辺元秀さん(セラピスト、整体師)の話 ]
渡辺元秀さん 1982年生まれ。サッカー選手を経て、2011年からオーストラリアへ。オーストラリア政府認定(ボウエンテクニック)の筋膜調整法をマスターし、2015年に日本に帰国。麻布十番に完全紹介制の整体院を開く。多くのプロサッカー選手が通うことでも知られている。サッカースクールも主宰。 |
「隼人とは、僕も彼がオーストラリアにいるときに出会いましたので、もう10年のつきあいです。当時、彼はお金がなかったので、無料で体のメインテナンスをしていました(笑)。隼人の強みは、何より「動じない」ことですね。
10代のころは、もう少しメンタルが弱かったと思います。当時から比べると、今は、確実に良い意味で「麻痺」している。海外にいけば、どの国にいっても、日本と文化は違うし、トラブルは必ずある。その中で、打たれ強くなっている。細かいことを気にせず、超越して考えられている。打たれているのかどうかも、わからなくなっているのかもしれない(笑)。
隼人には「国境がない」ように思えます。地球のどこかでサッカーができればよく、地球全体がグラウンドという感じですね。そんな彼を、今後も応援していきたいと思います」