
原田寛大 (はらだ・かんた)さん 2003年生まれ。スウェーデンでサッカーを始め、日本の部活、フランスでの社会人リーグも経験。国際基督教大学(ICU)では2024年シーズン、副キャプテンを務めた。大学でのポジションはボランチ。サッカー歴は、 IFK Stocksund (スウェーデン)→ 船橋イレブン2002(千葉県船橋市) →葛飾中学校サッカー部→ 八千代松陰高等学校サッカー部→ ESC XV (フランス社会人5部リーグ) →国際基督教大学サッカー部 |
ーーいつごろからサッカーをはじめましたか?
父の転勤に伴い、6歳でスウェーデンに渡りました。現地のインターナショナルスクールに入ったのですが、そのときに友達に誘われて、IFK Stockundというチームに入団し、サッカーを始めました。
ーースウェーデンでサッカーを始めたのですね?どんなチームでしたか?
![[IFK Stocksund U7の時の大会]](https://soccer-for-life.com/wp-content/uploads/2025/05/AD_4nXcZ8NBBqp8ScBFNsmySp-uHt3-5lG00TocH1lboiE9IHCRK3BUDpSD5CTbpwxoF8xZnkrEtjC6FBoOs-FB8eYyTN9nf41tmT9hPj_Vrvq5zUYWO64Uq6H3Lw2LkDc-tgYORcerTMFaDys7SOx_ct4o.jpg)
スウェーデン3部リーグに所属するプロチームの下部組織で、練習回数は週3回、人種はアジア人、ヨーロッパ、黒人など、多種多様でした。当時はコーチも元チェルシーのコーチで、クラブとしてかなり充実していました。
ーーそこのチームで苦労などはありましたか?
スウェーデンのクラブということもあり、コーチの話すことは全てスウェーデン語で行われていたため、言語の壁にぶつかりました。ただ、英語とスウェーデン語両方話すチームメイトがいたので、最初はその子に聞きながら練習メニューを少しずつ覚えました。練習の度に、コーチが言ったことで聞こえたフレーズをメモして、その時にどういう練習メニューをやったかを毎回覚えて練習に臨んでいました。最初は苦しかったですが、徐々にニュアンスで理解できるようになったので、しばらく経ってからは全く問題なく取り組めました。このクラブにはU9まで所属していました。
ーー日本に帰国後、千葉県の船橋市のチームに入ったのですね?
![[船橋イレブン2002でキャプテンを務めていた時]](https://soccer-for-life.com/wp-content/uploads/2025/05/AD_4nXf8B6qYNgWy7yMM4YXgZY93ENCH-apSU2HMTliKIzGwdZiqWJ503_TFqGRCv9xW-owMeZuvoD7-KJG7qiE8nAqLCCMUBBWQ5NOMm7pXt4aeuZZGcuWHqoDIcg10cr_Cm_cmcOHLofZ2_jQO4AdPPeU.jpg)
はい。帰国後は、地元船橋市の街クラブの船橋イレブン2002に入団しました。街クラブにもかかわらず、かなり強いチームでした。小学校5年生の時には、千葉県大会3位にもなったくらい、周りのレベルも高かったです。当時小学生だった自分が一番海外のクラブとギャップに感じたのは、リフティングのドリルを毎回必ずやっていたことです。海外のクラブでリフティングが練習メニューに組み込まれることがなかったので、最初は一番リフティングが下手でした。ただ、試合勘は鍛えられていたので、試合でミスすることはあまりなかったです。当時のコーチはかなり厳しく怒鳴られる毎日でした。ここでも海外との違いを感じた点でした。このクラブに限らず、他チームと試合しても、日本では厳しく育てられるのが当たり前のように見えました。育成年代においては、日本と外国で、サッカーに対する考え方・捉え方がかなり違うのだなと感じました。
ーースウェーデン時代には、怒鳴られることはなかったのですか?
はい。怒鳴られることは一度もなかったです。スウェーデンでは、勝つサッカーよりサッカーを楽しむことの重要性を教えてもらった気がします。練習メニューも遊び心を入れたメニューも多かったです。夏にはサマーキャンプを開いて、一週間ほど自分たちで好きなことを一日中していいという楽しみつつも自主トレで自己研鑽できる期間もあったのは印象深いです。
もう一つ日本との違いを感じたのは、環境面のことでした。スウェーデンのサッカーフィールドは、小学生が使う場所でも、必ず人工芝でした。日本に帰国してから、土のグラウンドでプレーすると知った時は驚きました。そうした環境の充実は、サッカーをプレーする上で、モチベーションの一つの要素となっていたのは間違いないです。
ーー中学時代は、どんな部活でしたか?またポジションなどはどこでしたか?
中学時代は、地元の街クラブでプレーしていた選手が集まっていた部活でした。それでも、強豪のチームの人も何人かいたので、県大会出場できるくらいそこそこ強かったです。中学自体がマンモス校だったので、部員数は全学年合わせて100人弱いました。当時はサッカー部部長として活動していて、ポジションはトップでした。
ーー高校でもサッカーを続けられたのですね?
高校では千葉県八千代市にある八千代松陰高校に入学して、フランスに移住するまでの4ヶ月間はそこでプレーしていました。周りは千葉県の有名な強豪クラブチーム出身の選手ばかりで、千葉県二部とはいえ、レベルはかなり高かったです。一個上の先輩は今J3でプレーしているほどで、これまでのサッカー人生で一番レベルの高かった時期でした。部活としても厳しい指導がされていて、辞める人もたくさんいました。自分は入学した時点でフランスに引っ越すことはもうわかっていたので、4ヶ月という短い間でも全力でやり切ろうと頑張りました。
ーーその後、2019年から2022年の間、フランス社会人5部リーグのESC XV というチームでプレーしておられますが、そのチームに入ったきっかけや理由を教えていただけますか?また、フランスの社会人の5部というのは、どのぐらいのレベルなのでしょうか?
フランスに行ったのも、父親の転勤のためです。入ったきっかけとしては、日本人の駐在員が集まるサッカーコミュニティで、駐在員の子供達のスクールのコーチとして指導していた時に、そのコミュニティ長の方の紹介で入団することになりました。ただ、当時17歳で入団して、18歳以上というリーグ登録の制限にかかってしまったので、最初は練習試合にずっと出させてもらっていました。18歳になったタイミングでリーグ登録してもらい、リーグ戦に出場していました。社会人5部リーグなので、リーグアンが1部でそこから数えて5部に相当します。聞こえはいいかもしれませんが、あまりレベルとしては高くなくて、他のヨーロッパの国の5部リーグの方がかなりレベルとしては高いと思います。下位リーグ(3部リーグ以下)は地域別にリーグが分かれていたので、正確にいえば、フランスサッカー協会5部リーグのパリ地区リーグに所属するチームになります。リーグ体制や運営もあまり良くなく、決して良い環境とは言えませんが、様々な人種がいるチームと試合ができたので、経験値としては大きかったです。
![[フランス5部のリーグ戦にも出場した]](https://soccer-for-life.com/wp-content/uploads/2025/05/AD_4nXdq92H5jvh-Pbiba6zZ2zYf8pPoUUeAxlorxsaGrS5WkM0hw4U4gyR0XfI0tiMkS9FCVbZS6WqBLsU3784ydqgMYgaobgn65az-B0fzsd7ZHlJplIwMCURm-7exZJ0FQpQY-pHBojiRhjW6Sm6hKfA.png)
ーーどんなクラブでしたか。特色を教えていただけますか?
チームはパリ15区を拠点(チーム名のXVは15区が由来)にしており、アンダー世代から社会人チームまで、規模としてはそこそこ大きかったと思います。チームには日本人の方も在籍していて、黒人、白人など、様々な人種が在籍していました。練習回数は週2回の日曜にリーグ戦か練習試合がありました。給料が発生するようなクラブではなく、アマチュアクラブに位置付けされていたので、選手のほとんどが自営業でカフェやレストランを経営している人が多かったです。
ーーフランスでサッカーをするうえで大変だったことは何ですか?それをどうやって乗り越えましたか?
まず一番最初に出てくるのはフィジカルの差です。周りは180~190cm、75~80kgが当たり前で、まともにぶつかると全く敵いませんでした。当時はチームで最年少ということもあり、一番チームの中でも走れたので、中盤のポジションを任されていました。それまで中盤はほとんどやってこなかったので、慣れるのに苦労しましたが、走りでカバーしていました。高校を卒業したら帰国することは決まっていたので、フィジカルを鍛えることよりも、今のうちに判断と技術をもっと鍛えようと思いました。判断で相手より先に動く、技術で相手をいなしたり、正確なダイレクトプレーができるように足元の技術を向上させるというように、体の接触をできる限り減らすことに注力していました。
ーー再び日本に戻られて、ICU(国際基督教大学)に入学後も、サッカーを体育会で続けようと思ったのはなぜですか?副キャプテンも務められましたが、特に思い出深いことがあったら教えてください。
正直、大学に入学した時点ではサッカー熱は結構冷めていました。ただ、入学してから一回リーグ最終戦を一人で観に行って、選手、監督、マネージャー、観客、フィールドが一体となって盛り上がっていたのをみて、この環境でまたサッカーがしたいと思いました。思い出深いことは、リーグ後半戦で勝ち越せたことです。最悪だった雰囲気を継続的にコミュニケーション取りながら改善を図って、やっているサッカーも形になってきて、後期の雰囲気は最高でした。自分が今までやってきたことが間違っていなかったとわかった瞬間でもあります。
ーー将来の夢や目標は何ですか?
今の目標はどんな形でもいいので、日本と海外の間に立つ仕事に就きたいと思っています。日本と海外に人生の半分ずつを過ごしてきて、様々な刺激を受けることができたと思っているので、これからはその経験を活かしつつ、海外転勤を経て日本と海外双方にプラスなものを還元できるようなことをするのが目標です。一言で言えば日本と海外に恩返しがしたい、これに尽きると思います。
今は就職活動真っ只中なので、とりあえず必死に取り組みつつも、まずは就職活動を楽しむことを意識しています。様々な業界を実際に見ることができる最後のチャンスなので、「好奇心」だけは忘れずにこれからも頑張っていきたいです。
![[中学サッカー部時代には、船橋市総合体育大会で得点王になった]](https://soccer-for-life.com/wp-content/uploads/2025/05/AD_4nXeEl1iSexF5LtOH6E389h76bsITiPTckZxOwtGknOzS9QhcP_Kv7WlEyOAxl6xOr-YXNobg05G8d0dXDKcJVj6l1iQI0nMOt64Fzp6h3VfRaShKNLBq9ClelUH_PGtXfo46ObIUkkPkyUe0V4ao6Tk.jpg)
ーーサッカーを通じてどんなことが学べると思いますか?
日本と海外でのサッカー経験を通じて、チームで動くことの重要性が学べると思います。サッカーは、チームスポーツの中でも、特にお互いの関係性が重要になるスポーツだと思っています。これはスポーツにとどまらず、普段の日常生活や社会人になってからも重要になることだと思うので、「サッカーで学べることは、サッカー外にも直接通ずるものがある」と信じています。
これまでのサッカー人生を振り返れば、ごく平凡なプレーヤーでした。Jクラブのユースに行ったわけでもなければ、強豪高校や大学のサッカー部に行ったわけでもありません。ただ、どんなレベルだとしても、その中で自分は何ができるのかを考えて行動に移すことは誰にもできることだと思います。チームに何を貢献できるのか、それはプレーだけではありません。今の自分の立ち位置を把握した上で、チームに足りていないところを俯瞰して見つけて自分が埋められることは埋めていく。それはサッカーだけではなく、社会に出てからもきっと同じだと思うし、そうした経験が人間としての成長にもつながるのではないかと思います。
ーーサッカー好きの子どもたちに何かメッセージをお願いします!
サッカーをやっていく上では楽しいことばかりではなく、苦しいこともたくさんあると思います。ただ、そこでどれだけ自分に矢印を向けて取り組めるかどうかだと思います。ただ、好きなはずのサッカーによって苦しむのは本末転倒なので、まずは楽しむことを忘れないでほしいと思います!
