白塚重典(しらつか・しげのり)さん

1964年、埼玉県出身。慶応大学経済学部卒、同大学経済学研究科博士(経済学)。1987年に日本銀行に入行し、松山支店長、金沢支店長、企画局審議役、金融研究所長などを経て、2019年9月より現職。
小学校5年からサッカーを始め、中学、高校、慶応大学でも体育会のソッカー部。現在もシニアチームでサッカーを楽しむ。

ーーサッカーは、日本で最も人気のあるスポーツの一つです。プロを夢見る選手たちも多いわけですが、実際にプロになれる確率は、どのぐらいでしょうか?

「Jリーグのプロになる選手は、毎年200人程度ですね。いきなり海外のプロになる選手もいますが、それは少数なのでとりあえず除外します。プロになるような選手は、高校までは部活やクラブユースで真剣にプレーをしていることがほとんどでしょう。JFAの選手登録者数をみると、高校世代(2種)が17万人です。1学年あたりだと、その3分に1程度と考えて、その中から、200人となると、0.3%ぐらいという計算になります」

「正確なことはいえませんが、プロになれる確率が、非常に低いのは間違いありません。

サッカーを好きでやっていることと、プロを目指すことのギャップは大きいということだと思います」

ーー白塚さんも、サッカー愛好者と伺っています。小学校から大学まで、どんな経験をされてきましたか?

「私は、現在の埼玉県さいたま市中央区(旧与野市)で生まれ、当時は小学5年から地元のスポーツ少年団に入れてもらえたので、その時からずっとどこかのサッカーのチームに所属しています。小学校(与野下落合小学校)・中学校(与野東中学校)のチームは、結構強くて、小学校は県大会の決勝で負けて全国大会に出場できませんでしたが、中学校の時は、全国大会に出場して、ベスト16まで行きました。当時、私は背が低く、太っていて、あまり足も速くなかったので、ベンチウォーマーでした。体が少し大きくなって、同学年の人たちと一緒にプレーをしても見劣りしなくなってきたのは、高校の後半ぐらいです」

「高校(慶應義塾志木高)の時も、2年の時、県大会の準決勝まで行って、武南に負けましたが、彼らは、全国大会で優勝しました。この時期、私はコンディションを落としていて、県大会は控えで、あまり出場機会はありませんでした。大学時代は、体育会派遣の一貫校のコーチをしていて、慶應志木高のグランドに通っていました。志木のグランドには7年間お世話になったことになります」

地方でもサッカーを通じた付き合いが広がる

ーー社会人になってからも続けておられるんですよね。

「社会人になった当初は、日銀のチームでインターバンクリーグというところでぼちぼちとサッカーをやっていました。40代になってからは、大学の先輩に誘われて、エリースというチームのシニアチームに入りました。その後、松山、金沢と地方勤務の間は、それぞれの地元のシニアチームに入れてもらいました。松山は愛媛四十雀、金沢は金沢フェニックスというチームです。サッカーを通じた付き合いも広がり、この時期も楽しかったです。特に金沢フェニックスでは、2シーズンぐらい在籍しましたが、県リーグで連続優勝しました。東京に戻ったあとは、エリースのシニアチームに復帰しました。年齢のカテゴリーが上がってシニア50です。1部に昇格したのを機にエリースは退団し、大学のOBのシニアチームであるBRBシニア50に移って、現在はそこを中心にやっています。来年はシニア60のカテゴリーでプレーできる年齢になります。ちなみに、シニアのカテゴリーでは、昔Jリーガーだった選手たちもプレーしています」

ーーポジションはどこですか?

「私のポジションは、ボランチか、サイドバックです。チームの事情によってセンターバックもやることもありますが、背も低いですし、本職ではありません。ポジションは、小学生の頃からあまり変わっていません」

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「3つのBが大切」と教わる

ーープロになりたいと思ったことはありますか?

「サッカーの才能は大したことないと自覚していましたので、プロになりたいと思ったことはありません。Jリーグが発足したのは私が社会人になってからです。私の同期の年代の選手もJFLからJリーグに行った選手もいますが、子供の頃から有名だった選手も多いですし、ちょっと世界が違うかなと思います。サッカーで生計を立てて行くことは現実的ではないので、生活設計はサッカー以外の仕事で立て、サッカーは趣味として息長く続けていければいいかなと思っていました。ただ、社会人になった当初は、まだシニアリーグなども盛んではなく、40代、50代になってもサッカーを続けているという姿は想像できていませんでした」

ーーサッカーのご経験というのは、どのように人生に生きるのでしょうか。サッカー経験が、仕事に生きることはあるのでしょうか。

「高校時代の恩師である渡部真也先生(故人)がよく言われていた言葉は大切だと思っています。こんなことをおっしゃっていました。

・グランドには、宝物がいっぱい埋まっている。練習を通じて宝物を自分の力で見つけ出す。

・サッカーは子供を大人に、大人を紳士にしてくれるスポーツである。

・サッカーには3つのBが大切。Ball control、Body balance、そしてBrain。頭が悪い選手は上手くならない(勉強ができるということと同じではないですが)

サッカーを通じて自分の頭で考えることをどれくらい意識して訓練してきたかは、仕事に生かすという点では重要だと思います。サッカーをやる上でも、ただ頑張ればよいということではなく、頑張り方の工夫が必要ということだと思います」

ーー国内、海外で贔屓のチームや、印象に残った選手がいたら教えてください。

「J3に落ちてしまった愛媛FCやまだJ2で頑張っているツエーゲン金沢の東京周辺での試合には応援に行きたいのですが、なかなか予定があいません。大昔の話になりますが、初めてライブでのテレビ中継をみた1974年ワールドカップの記憶は強いですね。優勝した西ドイツのフランツ・ベッケンバウアーやゲルト・ミューラー、準優勝でしたが、とても洗練された現代的なサッカーをやっていたオランダのヨハン・クライフやヨハン・ニースケンスなど、記憶に残る選手たちがたくさんいました。それから、中学3年の夏に、ワールドユースが日本で開催され、優勝したアルゼンチンが大宮サッカー場でグループリーグを戦いました。毎試合見に行きましたが、当時すでにマラドーナの太ももがとても太かったのが印象的です。ディアスの得点の嗅覚もすごかったです」

怪我をしないためのトレーニングを続ける

ーーサッカーのプロを目指しても、さまざまな理由で夢をあきらめる選手たちも多いわけですが、そういう選手たちに、大学の先生として、サッカー愛好者として、何を伝えたいですか?

「プロ選手を目指す、あるいは関連する分野の仕事を目指すという選択肢にトライすることはもちろんいいことだと思います。ただ、サッカーを始めた人が全員、サッカーで生計を立てて行くことは現実的ではありません。私は、生活設計はサッカー以外の仕事で立て、サッカーは趣味として息長く続けていければいいかなと考えました。そうしたサッカーとの接し方は、多くの人にとって現実的な選択肢になりうると思います」

「年をとってくると、サッカーの怪我が、致命傷になります。怪我せず、楽しくプレーを続けられるようにするには、日頃のトレーニングが重要です。その意味で、私自身が日課としているランニングやジムでの筋トレは、サッカーをやる上で非常に重要なことだと思っています。筋トレやランニングはずっとやっていた訳ですが、マラソンは松山支店長だった時に、ご当地のマラソンをサポートするということで愛媛マラソンを走ったのが最初です。次に転勤した金沢でも北陸新幹線開業にあわせて金沢マラソンが始まりました。今でも年に数回、マラソンやハーフマラソンを走っています。自己ベストは、5年ぐらい前に3時間27分という記録を愛媛マラソンで出して、それがピークです。最近は4時間前後のタイムです」

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(2022年8月31日)